【お詫びと訂正】「○○という人種〜」という物言い

johanne2005-12-19

http://d.hatena.ne.jp/johanne/20051127で記した《一級建築士なんて人種は人生で心底謝罪するなんて経験をしてこなかったのだとも思う。》という記述について、遅まきながら軽率で偏見に基づいた発言であったことをお詫びします。ある職種や立場にある個人を「○○という人種〜」と一方的にカテゴライズする物言いは、翻って自分にぶつけられる偏見や罵倒と同一です。その陥穽に思い至らず、はんかくさいコメントを晒したことに、痛切な忸怩を憶えます。不愉快な思いをされた方々には、重ねて謝罪します。なお、元の記述は自戒を込めてそのまま晒しておきます。

「69年派」への違和感

NHK制作のTVドラマ「クライマーズ・ハイ」前後編を興味深く観た。夏に放映されたTBS「ボイスレコーダー(だったっけ?)」もよかったが、1985年の日航ジャンボ機墜落事故から20年が経ったという事実は、自分自身の20年間をふいに追想させる。

あの夏、僕はせっかく入った群馬の公立大学からドロップアウトしようとしていた。学生寮での息苦しく、不愉快な体育会ノリからとにかく、逃げ出したかった。事故のニュースは逃亡先の東京で知った。確か、コミケの翌日だった。金欠になり、高碕の学生寮に渋々戻ったのは数日後。都合よく、地元での日雇いバイトのクチがあった。連れてこられたのは前橋の体育館。一面にパンチカーペットを敷く仕事の最中に、慌ただしく何かの設営が始まった。組上がっていくそれは、仰々しい祭壇だった。しばらくして、そこが日航機墜落事故の合同葬の式場だと知った。僕のフリーター経験の中でも、それは強烈な印象として残っている。

クライマーズ・ハイ」は、事故報道をめぐる地方新聞社の一週間を軸に描かれている。記者達のセリフで幾度も飛び出すのは「大久保・連赤」というキーワード。群馬繋がりと言うだけではない。彼らが全身全霊を賭けて取り組み、それでなお味わった苦い敗北の記憶。物語はこれでもかというくらい彼らに「敗北」を突きつけ、最後まで目に見える「勝利」は与えられない。「団塊の世代」が描く物語に通底する「敗者の自己総括」へのこだわりに感心したが、同時に違和感も際だった。

彼らにとって「日航」は「大久保・連赤」を凌駕しかねない「壁」であり、1985年は彼ら「1969年派」がもがき続けた15年間を現役として「総括」する決定的な機会として屹立したと、ドラマは描写する。しかし、僕という個人にとって「日航/1985.8.12」は、「史実」とわずかに接触した最初の機会として記憶される。その後僕は、1988年の狂騒を経て、1989年と向き合うことになる。

1月7日、天皇Xデー。2月9日、手塚治虫死去。2月24日、「大喪の礼」。6月4日、天安門事件。7月23日、「連続幼女誘拐殺人事件」宮崎勤逮捕。11月11日、「ベルリンの壁」崩壊。未熟な僕は、現在の自分の思考やポリシーを形作った決定的な「史実」たちと切り結ぼうとがむしゃらだった。「69年派」に比べれば遙かに脆弱ではあったが、「89年派」は間違いなく存在した。

「69年派」が「敗北」にこだわるのは、(勝てるかも知れない)という希望の残り火を感じていたからではないのか。「89年派」にとって「敗北」は前提であったし、ままごとのような「抵抗」の先に「ちっぽけな勝利」を夢想し続けることだけが動機であり、希望だった。「69年派」への違和感はそのまま、批判や揶揄の言葉となる。彼らが過去を悔やんだり懐かしがったりする膨大な時間の一部でも、現実の変革や抵抗に関与する余裕があったなら、左派はここまで潰滅しなかったはずだ。僕はもう「69年派」には期待しない。「89年派」が同じ轍を踏まないためには、たとえ微力であっても動き続けること。あらゆる可能性に向かってアンテナを張ること。そして、来るべき次の世代との連帯を躊躇しないこと。その努力を怠れば、旧世代と同じ誹りを受けて、遺棄されるだけのことだ。そうした傾向は既に始まっているし、(オマエハイラナイ)という宣告に狼狽し、怯える自分の幻がそこにいる。

それを再確認して、また、歩き始める。