「構造」は「改革」されたのか?
日本経団連の御手洗富士夫が年金改革について「基礎年金は消費税で賄うのが望ましい」と発言し、民主党案に理解を示したという。政権交代の可能性含みで秋波を流しているという訳か。あきれたものだ。キヤノンが悪質な偽装請負で告発されても「制度が悪い」と開き直った経営者サマ。民主党の一部がこの発言に浮かれている有様もうんざりだ。
「好景気」を大多数の国民が実感できない元凶は企業のモラルハザードにあると感じるのは俺がひねくれ者だからか? 公的資金を注入されて『不良債権』を切り捨て、貸し剥がしてまで回収した資金を蓄蔵し、挙げ句に政治献金までしようとしたみずほ銀行なんてケースもあったな。 ネコババ社保庁と同様に、こいつらにも牢屋に入っていただく必要があるのではないか? 日本の司法にそんな甲斐性を期待しても無駄か。
必要なのは適切な利益再分配や雇用制度の再検討、低所得者向け融資基準の見直しだと思うのだが、そう発言した段階でサヨク規定されるから、難儀な世界だなぁ…と思うのだ。いいか? 少数派であるキミらの立場に取って有益な国策とはそういうことだろう?この上社会保障制度の崩壊に拍車がかかれば、本当に生き死にの問題になるぞ?
「構造改革」の目玉だった道路公団改革。あの時モデルケースにされたイタリアの高速道路民営化は、経緯から言えば「小泉改革」とは真逆の歴史から成り立っていることをご存知か?
イタリアは1980年代に政治システムの根本を揺るがす巨大疑獄を経験している。当時の国会議員の半数、主立った大企業の経営者、銀行経営陣が軒並み有罪となり監獄に送られた。その後「オリーブの木」と称された中道左派政権が誕生するまで、政治不安定の中で国家経済がどん底まで堕ちる状況に耐えながら、骨身を削る「構造改革」が遂行され、ようやく先進国の一員に復帰したのだ。
「小泉改革」に決定的に欠けていたのは、国家経営の主体たる議員、経済人、官僚に対する責任追及と処罰だった。安倍は結果的に貧乏くじを引かされ、福田になれば緩やかな「再構築」を目指すと、口では言うだろう。しかし、小泉によって「ぶっ壊された」自民党の実態は、利害共有する集団のコンプレックス・パーティーからある種のイデオロギー・パーティーに矮小化された政党ではないのか。「かつての社会党」に似通っているのは、実は自民党の方ではないのか? では民主党は? あれは乱暴に言えば「旧田中派」に若干リベラル色がついた政党と考えれば良い。
「小泉構造改革」がもたらしたのはもう一つ、「劇場型政治」、「ポピュリズム」に過敏に反応する国民とメディアを生み出してしまったことだ。ある意味「郵政選挙」も今回の参院選も同じ「没論理」にメディアと国民がファナティックに反応した結果である。それがわかっていてもなお、民主党への政権交代は完遂されなければならない。期待しているような効果が現れなくても、最低3年間は自民党を野党にとどめておかないと「既得利権」はリセットされないからだ。
床屋政談はここまで。実際、貧乏マンガ家に出来ることは、ただひたすら「描く」ことしかないのだから。