「性差」に関する愚考。

久々にゆっくりTV鑑賞の機会。テレ朝「流転の王妃〜」とTBS「生命38億年スペシャル」の二択でカミさんとチャンネル争い勃発。結局、メインスクリーンは独裁を発動した僕がGET。で、「バカの壁」養老センセのTBS。

面白いんだけど、内容が散漫かも。虐待の末言葉を獲得できなかった少女ジーニーの話とか、そんなまとめでいいのか?という疑問とか。サヴァンウィリアムズ症候群の扱いなんか、一時期流行った「ピュア」礼賛の延長にも取れる。そんな中、「母性スイッチ」の話とかから、数年前にメンズリブ大会で阪大の伊藤公雄センセイと話した内容をふいに思い出した。

僕が「男女の性差とかに関して、本能論や脳機能論から現状を肯定するバックラッシュについて、どう思います?」と聞くと
「人間はそんなに本能や脳に支配されているわけじゃないよ。それを持ち出したら、論理性や合理性から積み重ねられた学問や思想は無意味だってことになるけど、そうじゃないでしょ?」との答えが返ってきた。そのときは納得したけれど、今々、考えてみると「経験や実感」が導く仮説は、そんなにスパッと斬れるもんじゃないんじゃないか…という結論に行き着く。

  • 「同性愛は先天的か後天的か」
  • 「トランスが選択するジェンダーはなぜ旧来のスタイルに固着するか」
  • 「恋愛幻想を否定し、性的自由を主張する『イケてる人』が往々にしてパートナーとの共依存関係を黙殺するのはなぜか」
  • 「結婚制度を否定する人々が性道徳にうるさかったり、制度を利用した人をことさらに非難するのはなぜか」
  • 「被差別者や少数者に共感するという多数派がなぜ当該以上に好んで糾弾を行うか。またはことさらに便宜を代行しようとするか」

これらの問題をジェンダースタディーズやフェミニズム、プロフェミニズムメンズリブの解釈で合理化しようとすると、屋上屋を重ねるような複雑な理屈になっていく。しかも、どこか不自然で不正直な感じがする。最近起きている「バックラッシュ」に僅かな理があるとすれば、こうした合理の影に、マイノリティ自身が抱える自己矛盾を切開するという難しい作業を意識的にスルーしたことで起きる「不誠実さ」を訝しむ感情が混ざっていることにあると思う。

人間が本能や生理や感情に従って動くと、チンパンジーと変わらない残虐性を発揮するかもしれない。だから、人間は共同体の中で様々な秩序や倫理や科学や宗教や思想を構築し、そこに所属することでお互いの微妙な関係性の折り合いをつけている。いまある最新の考え方は、その中で絶えず発生する疎外や齟齬に折り合いをつけるための道筋をつけているのだと思う。だが、「折り合う」バランスは、果たして合理性のみを尺度として規定されていいものなのだろうか?

「n個の性のグラデーション」という考え方は、僕にとってかなり革命的な発想だった。「ふたなりファンタジー」をこよなく愛する「受け男」……という自分のポジションも、このグラデーションの中には確実に存在する。そう確認できたことは、とてつもない収穫だった。



しかし、だがしかし!



「母性スイッチ」の話が本当なら、ジェンダーそのものはかなりの確率で「先天的に」規定されることにならないか?DVの加害者被害者の立場は、経済的社会的格差が解消すれば平均化するのか?ジェンダーフリー教育が達成されれば、この社会から性差別は消えるのか?「本能的」「脳機能的」とされる性差を合理性に基づいて否定、解消できるというのは、「共産主義の理想」と同じくらい気の長い話じゃないのか。ゲイフォビアがゲイを差別し、社会に認知されているゲイが女性を差別し、女権論者が全ての害悪を男社会になすりつける可能性のあるこの社会を少しでも良くしたいと思うなら、「折り合い」をつける努力は欠かせないはずだ。マイノリティの発言は尊重されてしかるべきだが、その主張をデフォルトにするには、多くの異論を取り入れていくしかないだろう。

何より必要なのは、自己と向き合い、社会と向き合うことじゃないのか。差別は抹消するものじゃなく、融解させていくものなのだと思う。決して、DV野郎の自己弁護ではなく。えぇ、えぇ、わかってます。僕が悪かった。許してくださいマイハニー。