魂の強度について考える。

最近、まぁなんというか、荒んでいますね。鹿島拾市的に言えば「なんという退廃!」と。激増している凶悪犯罪は青少年より外国人より若年夫婦より「中高年男性」だそうですから。たしかに、爺婆のモラルハザードはすごいことになってるなー…と思ったり。オレオレ詐欺ヤミ金は本職じゃなくて一般人の方が圧倒的。暴力団からも「使えない」とリストラされたダメ人間が街を彷徨ってます。

そういや、明日は麻原の判決。ここん所、検証番組をハシゴしていて感じたのは、前述のモラルハザードオウム信者の言い訳も総じて「自我の弱い人問題」なんじゃないかと。

自己の存在が希薄。自信がない、自分がない。欲望も淡泊で、他者に対する想像力が著しく欠如している。欠如している割には依存心が強い。他力本願と依存は別物ですぜ。そのくせ安直に自己実現や幸福や成功を望む。結果、新興宗教にハマり、自己啓発セミナーにハマり、マルチ商法にハマり、パチンコ依存にハマり、ヤミ金にハマり、オレオレ詐欺にハマり、児童虐待にハマり、DVにハマり、○○イズムにハマる。何のことはない。僕もキミも、老若男女を問わず、「自我の弱さ」は概ね「恐ろしく我の強い奴」に食い物にされ続けるのだ。

これを克服する方法は唯一、「自己と向き合う」という作業、修行でしかない。が、なかなかこれが出来ない。

本気で懲りたり、困ったり、反省したりすることで人は前進できるのだが、そうするとちっぽけな自分を認めることになる。ちっぽけで無価値で無能な自分だという事実を認めると幸せから遠ざかると思っている。*1

全然逆。「ダメな自分」を可愛がっている限り、「何かいいこと」なんか来やしない。概ね人間はそうやって自滅していくが、反面それは、自分が望んだこととされるのだ。

ちょいと前に思わず吐いた「中の人」という発言は、こうした因果律を要約したものだ。「中の人」は脆弱な自我に寄生し、懲りたり、困ったり、反省したりするのを嫌がる。緩やかに自滅していくように人間をコントロールしようとする。進展や肯定や成功や幸福を忌み嫌う。「ダメな自分」を認めるという作業は、一方でこの「中の人」からの干渉との格闘になる。

「だめ連」が本来目指した目標は「だめをこじらせないように繋がっていく」というものだった。それが今では、リアルダメな人たちが「自分たちの居場所」にしてしまって、崩壊寸前にある。これこそ「対『中の人』戦争」の敗北、という現実である。

オウム信者は「中の人」と向き合うべき修行を、「中の人」の甘言に負けて「ダメな自分にとって都合のいい理屈」にすり替えてしまった…とはいえないだろうか。あの、「自我の固まり」みたいなヒゲオヤジに呑み込まれていったのは、おそらくそういう仕組みだろう。「キリスト」と「偽キリスト」を見分けるポイントも、恐らくそこにある。



「魂の強度」と、「自我の強度」はアンビバレントな関係にある。一般に「引きこもり」は「自我の弱さ」と評されるが、そうではなくあれの多くは「強烈な自我をもてあました人々」なんじゃないか。むしろ、「魂の強度」においては課題が残る…ということなんじゃないか。本当に強い魂は、元々自我の強い人には宿りにくい。かといって、自我の弱い人は概ね魂も貧弱だ。唯一、強い魂を宿す人間は、脆弱な自我を認め、それを少しずつ鍛錬していった存在ではないのか?キリスト教の本質とは、そういうことなのではないかと思う。ってか、仏教も本来そういうことだと思うが。

一方で、「久米宏のがん戦争」を観ていて、人間にとっての病とは、むしろ魂の強度を鍛える契機なのかもしれないと感じた。子どもの頃読んだ昔話で、「一病息災」というのがあった。持病を抱えて苦しみながら生きている人と、病気知らずの快活な人。長生きしたのは病人の方で、健康な人はある日ぽっくり逝ってしまった。願うなら「無病息災」ではなく、「一病息災」と願いなさい、という教訓話

そう考えると、「ココロの病」を患ったことすら、神が与えたもうた祝福であると、素直に感じられるようになった。


*1:ちなみにこの辺は、孤高の心理療法士、笠原敏雄先生の受け売りです。http://www.02.246.ne.jp/~kasahara/