「馬の骨」のころ・前編

 イラク反戦運動に若者が多く参加していることが話題となっている。インターネットなどを通じた動員型じゃないネットワークのあり方などが新しさとして取り上げられているようだ。仕事や生活の忙しさにかまけて、ぼく自身はほとんどデモにも顔を出していないが、伝わってくる様子を聞いていると、ぼくが若い頃に遭遇した1980年代後半の、反原発運動をはじめとした大衆運動の小さな高揚からつながっている面が感じられる。自発的なネットワークなどは当時、すでにニューウェーブなどと言われ注目されていた。一方で、あまりつながりを感じない面もある。当時必ずしも言葉になっていたわけではないが、小市民的などと揶揄されていたおばさんたちの反原発運動の中にさえあった「秩序」へのイラダチのようなものが、現在の運動の少なくとも主流には感じられない気がする。

 二十歳前後の頃、ぼくがその一員だった「馬の骨」なる小さな集団の顛末を書こうと思うのは、80年代後半の若者運動のひとつの典型として参考に供したいという気持ちからだが、同時に、そこで出会った「太田リョウ」という男について書いておきたいからでもある。

 そもそもの始まりは、昭和天皇が死んだ翌月の89年2月頃、前年の反原発運動の中で知り合った林君と山本君(『黒』でおなじみの唯人君とは別人)が、一緒に反原発の音楽イベントをやろうと声をかけてきたことだった。
 林君は、当時はまだ多くはなかった茶髪に、いつも細いジーンズにラバーソウルをはいていたので「パンクの林君」と呼ばれていた。口数が少なく、ごちゃごちゃ議論するよりさっさと行動する方が好きないわば「職人気質」な男だった。一方の山本君は漫画家志望で、Gジャンにやたらとバッチをたくさんつけた姿で集会に現れては、自作の漫画同人誌を大声で売っていた派手な奴だった。いつも大風呂敷を広げているという印象があった。
 イベントはどうも山本君が思いついたことらしく、ぼくは気が進まず説得に批判で応じていたのだが、いつのまにか批判は提案と受け止められ、気がつけば企画に合流してしまっていた。意外にも山本君とぼくの発想はウマが合い、どこまで本気なのかあいまいなまま風呂敷が膨らんで、林君が黙々とそれに必要な段取りを考えた。
 そのうちに幸渕が(と呼び捨てで呼ばれていたので、そう書く)合流してきた。彼女ははじめの3人よりいくつか年上だったが、姐御的なカリスマがあって、年齢以上に大人に見えた。国家によるセックス・ドラッグ・ロックンロールの管理に反対するというSDRと、母や妻として戦争に動員されることを拒否するというアンチ国防婦人会と名乗るグループの二つをやっていた。今でこそセックスワーカーの権利といったテーマはフェミニストの定番になっているが、このころに売春婦の人権を掲げて集会を開いていたのは、日本では幸渕だけだった。かっこよく着古した茶色のアーミーコートを着ていたのが印象に残っている。
 その後も次第に仲間が増えて話が膨らむうちに、反原発イベントは反管理教育や反天皇制まで掲げた正体不明のものとなってしまった。結局、それらの課題に取り組む同世代のグループによるアピールと、そうした運動に参加しているバンドのライブを組み合わせる形になった。場所は代々木公園の野外音楽堂。ここを選んだのは原宿ホコ天に向かって開かれていたからだ。

 88年前後のニューウェーブなどと呼ばれた反原発運動だけではなく、この頃の東京周辺の若者運動には独特の雰囲気があった。反天皇制にしろ、反管理教育にしろ、少人数の個性的なグループがいくつもあって、その中にはパンク系を中心としたバンド活動をやっている人が多かった。彼らはよく「動物実験反対GIG」「『反日』支援GIG」などと銘打ったGIG(ライブ)を、ライブハウスや原宿ホコ天で行っていた。ぼくらはこうした作風が好きで、彼らが一堂に会するようなイベントをやりたかっただけだったのだと思う。中でも、当時ホコ天でくり返し弾圧され孤立していた反天皇制グループ〈秋の嵐〉の人々にエールを送りたかった。
 調子に乗って、天皇(アキヒト)の顔に細工した宣伝ステッカーを作り、夜中に各地のガード下などに張りに行った。いろんな思いつきの細工を仕込んで、当日を待った。

 4月2日正午、イベントは予定通り始まった。司会は幸渕だ。いつも強制排除や逮捕をくり返されてきたホコ天を見下ろしながら、〈秋の嵐〉系のパンクバンドが舞台を跳ね回る。様々な課題に取り組む友人たちがその合間にアピールする。もちろん山本君の同人誌も売っている。だがお楽しみはそのあとにも準備されていた。ぼくらはこの野音からホコ天を抜けて渋谷に向かうデモを申請しておいたのだ。
 代々木公園の遊歩道に突如出現するデモ行進。原発反対!管理教育反対!天皇制を解体するぞ!…趣旨はやや不明だが、そのインパクトは強烈だ。リヤカーに積んだ2つの大スピーカーからは、ロックが大音量で流され、チラホラと頭上に浮かんでいるのは、よく見れば風船ならぬ大きな黒いゴミ袋だ。アナーキーのAマークを書き殴ってある。ゴミ袋のほかに、コンドームを浮かべているのはSDRの面々。ここまではもちろん、あらかじめ思い描いていた通りの展開だった。

 「ウォーッ!デモやるぞー!デモやるぞー!」。突然、どこからか赤ひげの男が現れ、ガラガラ声でわめき始めた。背中にストーンズの舌出しマークをつけたモッズコート。フードを被っているが、よく見るとロバート・デ・ニーロに似てバタ臭い顔立ちだ。私服刑事を見つけ出しては、ウイスキーびんを持った腕をくるくる回しながら罵倒する。おい見ろ、こいつポリ公だ!人の後つけてコソコソ写真とるのがこいつらの仕事なんだ。なぁーオッサン! かなり恐ろしい感じ。
 これが、太田リョウがぼくらの前に初めて登場した瞬間だ。後で聞いたところでは、デモが始まるまで、茂みの中で酔っぱらって寝ていたらしい。かなりヤバそうなのが出てきたとぼくは身構えたが、彼の登場は思わぬ展開を巻き起こした。太田は、この奇妙な行進のまわりをウイスキーびん片手にひらひらと飛び回り、一瞬も止まることなくわめき続ける。腹の底からガラガラ声を響かせて公安を野次り倒し、嗤い飛ばし、行き交う人々に呼びかける。さぁー皆の衆、集まれ集まれ、デモ行くぞー!だがそのどこかリズミカルな口上に、気がつくと野次馬たちが本当に吸い寄せられ、行進に合流し始めたのだ。

 渋谷の街に出る頃には、見知らぬ顔の混じったこの集団は二百人に近くなっていた。ぼくが東京電力のPRセンター「電力館」の前で「5分間の座り込み」を呼びかけたときは、警官たちが大慌てで抑えにかかり、大変な騒ぎになった。一体こいつらは何者なのか、何がしたいのか、警察も対処に困ったに違いない。だが仕方のないことだ。ぼくたち自身にもサッパリわからなかったんだから。
 この夜の打ち上げは当然、太田リョウが主役となって大いに盛り上がった。彼の豪快で強烈なキャラクターと、機関銃のように止まらない冗談とアジテーションは、その場にいた全ての人を引きつけていた。しかし彼を仲間として歓迎するにはひとつの問題があることがこの席で明らかになった。少なくともぼくにとっては。
 彼は、自分が中核派であることを積極的に公言していた。少なくないぼくの先輩や友人が中核派に酷い目に遭わされている。中核派の人間と親しくつき合う訳にはいかない。この頃のぼくの考え方はそんなところだった。山本君などにも、彼は面白いけど、中核派オルグに来たのだ、あまり近づけない方がいいなどと耳打ちした。
 だからこの文章にも太田リョウはしばらく登場しない。

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 「4.2」の思わぬ展開に、これを準備してきたぼくらは興奮していた。面白かった!これをどう考えるか、どっちに進めばいいのか、議論を重ねた。あらかじめ方針もコンセプトもなかった分、起きたことから後づけで方針を発見するのがこれ以後のぼくたちのパターンになった。
 結論はこうだ。「4.2」が面白くなったのは、イベントで掲げたテーマのためじゃない。学生でもなく、労働運動でもない、どこの馬の骨か分からない連中が現れ、主役になったからだ。そもそも〈秋の嵐〉を始めとする若者運動や反原発運動からして、そういうものだったんだ。どこの馬の骨ともつかぬ連中の登場が、街頭の秩序、ひいては社会や「運動」の秩序に裂け目をもたらす。あらゆる機会を捉えて、こいつを拡げること。それが「4.2」にかいま見た可能性だ。と、まぁここまで明確に言語化したわけでもなかったが、そんな話をしながら、ぼくたちは新グループを「馬の骨」と命名した。

 この命名の正しさをあらためて確認したのはそれから3週間後のことだ。
 チェルノブイリから3年目の4月26日、「馬の骨」の面々5〜6人はまたも渋谷「電力館」に向かったが、休館日のため肩すかしを食らってしまった。仕方なくビラを撒きながら原宿に向かう途中、渋谷公会堂前に、「ラフィンノーズ」のライブを待つ行列を見つけた。当時ぼくらが、商業パンクだと言って馬鹿にしていたバンドだった。早速、試すような不遜な気持ちも込めて、行列するラフィンのファンたちにビラを撒きはじめたのだが、あっという間に、「ビラまきやめてください!」と叫ぶ公会堂の案内係の男の過剰反応に出会い、口論が始まった。さらにダフ屋までが、お前ら商売の邪魔だと言ってわらわらと集まる。
 と、何がきっかけだったのか、「馬の骨」に出入りしていた吾道−九州から歩いて東京に来たという少年だった−が、ダフ屋に襲いかかった!もうこの後は、ダフ屋と「馬の骨」メンバーが入り乱れての大乱闘に発展。案内係は悲鳴を挙げ、ラフィンファンどもはうろたえ、遠くから立場不明の奇声を挙げる―それだけ。「何がパンクだ、笑わせんじゃねぇ!」林君が赤い髪を振り乱して叫ぶ。この時だ。山本君が、彼の襟首をつかんで「お前ら何者だ!」と尋ねるダフ屋にニヤリと笑って答えて見せた。
 「馬の骨だよ」。
「ウマノホネェー?」一瞬きょとんとしたダフ屋は、なにやら興奮して仲間たちに叫ぶ。「おい、こいつらウマノホネだってよ!」。やったやった、これがやりたかったんだよと、後で山本君ははしゃいでいた。ぼくも渋谷公会堂からの帰り、何だかうれしくて仕方がなかった。反原発のビラを撒きにいってダフ屋と乱闘する。何というアドリブ性だろう、これこそ「馬の骨」じゃないか。進むべき方向が見えてきた気がした。ぼくたちはこの日の出来事を「ラフィンノーズ粉砕闘争」と命名した。

 さらに、その日やるはずだった「電力館見学闘争」は、5月5日に日を移して決行された。電力館原発PRコーナーを見学するだけ。ただし、反原発のゼッケンを着けて。しばらくすると予想通り職員たちが飛んできて「出ていって下さい」と言葉だけは慇懃に叫び出す。「見学以外の人は出ていって下さい」。馬の骨の面々が言い返す。「見学してるだけじゃないか。俺たちだって電気料金払ってんだ」。子供連れの客から馬の骨に野次が飛ぶ。「子どもの日にこんなことやるな」。「子どもをこんなところに連れてくるな」と馬の骨が言い返す。さもお客様へのサービスといった顔で原発をPRする電力館を舞台に、消費者と電力会社の権力関係を可視化させる−これが電力館見学闘争の狙いだった。誰かが、まだ着工されていない六ヶ所村の施設がすでに着工しているかのように表示されているのを発見、職員に反転攻勢をかけたが、そろそろ「来る」と判断して馬の骨は撤退。案の定、電力館を出ていく馬の骨たちの横を、警官隊がすり抜けていった。
 こんな風に思いつきで騒ぎを起こすのが、馬の骨の「運動」だった。まったく無邪気な「ラディカル」ぶりだ。しかし、こんな連中のために事務所の一角をフリースペースとして使わせてくれる寛容な区議がいた。ぼくらは会議と称して週に数日はそこでおしゃべりをしていた。幸渕、幸渕の彼氏のケンちゃん、林、山本、カンコンという女の子、そしてぼくが毎回の常連で、これに〈秋の嵐〉のメンバーやいろんなバンドの奴、街頭で知り合った奴、不登校の少年などが茶飲み話をしにやって来ていた。用があって事務所に来た地域の労働運動のおじさんがこれに加わることもあった。ステ張りの技術などはそうした人たちから教わったのだった。楽しい時間だった。

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 そんな馬の骨の「運動」にとって、一大転機となったのは天安門事件だった。

 6月、ぼくらはしつこくも再度の「電力館見学闘争」を計画していた。思いつきで始まった「見学闘争」だったが、次第にその位置づけが議論の中で確立しつつあった。原発現地と違い、大都市に住む我々は消費者としてのみ電力会社ひいては原発と関係を持っている。しかし電気を売って欲しいのは確かだが、原発で生産してくれと頼んだ覚えはない。我々にとっても原発は強制されている。ずっと後に「押し付けられるのは電気だけでたくさんだ!」というちょっぴり身勝手なスローガンのビラも作ったが、この一点で消費者として原発と象徴的に対峙するのが、「電力館見学闘争」だ―そんな論理だった。この発想は、泊原発に反対する札幌ほっけの会が掲げていた「札幌の現地化」というスローガンや、『反原発事典』で読んでいた向井孝の「宣伝戦争論」にヒントを得たものだった。
 論理は大層なものだが、やり方としては5月5日にやった騒ぎをさらに大人数でやろうというだけのことだ。各大学の反原発サークルの集まり「反原発学生連絡会」(僕自身も一員だった)に応援を頼み、前日の夜に泊り込んで横断幕などを準備した。作業のあと、酒を飲みながらみんなが興奮して語り合ったのはしかし、原発のことではなく、北京で続いていた天安門広場の占拠の方だった。4月末以降の北京の学生運動が、天安門広場での座り込みに昇りつめていくのを、ぼくたちは固唾を呑んで見守っていた。テレビに映る、広場を埋め尽くす人の渦。色とりどりにはためく旗や横断幕は自由な連帯そのもののように活き活きと眩しかった。それはまさに、ぼくらが憧れてきたイメージそのものだった。その広場に軍隊が迫っている。「オレはあの広場のためだったら死んでもいいよ」と興奮した山本君が叫んだのを覚えている。

 夜中、何となく眼が覚めて雑魚寝の中から起き上がったぼくは、テレビをつけてみた。赤い街灯に照らされた長安街を戦車が走っていた。人々に向けて放たれる乾いた銃声が、ひっきりなしに続いていた。1989年6月4日未明のことだ。

 翌日、電力館見学参加者の合流場所としていた渋谷の宮下公園に行ってみると、全く予期しなかったことに、中国人留学生による抗議集会で埋め尽くされて文字通り立錐の余地もなかった。あんな異様な迫力のある集会をぼくはその後も見たことがない。段取りが悪いのか、主催者のアピールといったものがなかなか始まらない中、群集はうねりをあげ続けていた。誰かが「打倒リーパン!」「打倒トンシャオピン!」と怒りに満ちた叫びを上げると、これを復唱する輪があっという間に広がる。集まった意味を互いに確認するかのように絶えず押し合いへし合いうごめき、ときに声をそろえて叫ぶ。うねりというしかない群集の固まりだった。あとで知ったところでは3千人はいたらしい。やっと主催者が登場、少ししゃべるとすぐにデモに移ることになった。

 この日の電力館見学に参加するつもりでいた面々が、馬の骨の旗を見つけて集まってきた。旗は、山本君のデザインで作ったもので、この日がデビューである。水滸伝に出てくるような、端がギザギザになった中国式の軍旗で、黄巾賊の乱をイメージした黄色い旗だ。全員一致で、電力館はまたにしてこのデモの方に参加することに決まった。
 こんな日に能天気な旗が恥ずかしくなったぼくらは、デモの最後尾を待ち、中国語のコールに唱和していた。と、『報道』の腕章をつけたおじさんが、飛んできた。
「ちょっと待て。君たちは今日のデモで唯一の日本人グループなんだ。日本人を代表してここにいるんだ。中国語じゃなくて、日本語でコールをやらなきゃ!」
 気がつけば、確かに日本人はぼくたちだけだった。「そうだ!そうだ!」まわりの中国人からも声が飛ぶ。「分かりました」みんながうなづく。何だか大きな使命を負ったみたいな気がした。
おじさんは腕章を指差して「オレは今日、これだからさ、後はしっかり頼むぜ」と映画のようなせりふを残すとどこかへまた飛んでいった。
 主催者の車から聞こえてくる中国語のコールを日本語に直して叫びながら、どこかの公園までデモした。すでに中国人たちでいっぱいとなったその公園で、馬の骨の旗は拍手で迎えられた。「馬の骨さん、がんばって!」と方々から声が飛ぶ。何もがんばってないのに。そもそも俺たち何て間抜けなんだろう。「馬の骨さん」だって。恥ずかしくなって横を見ると、早大原発研の舟橋君が涙を浮かべていた。
 デモはこれでは終わらなかった。「中国大使館へ行こう!」人伝いにひそひそ声が拡がる。狭い歩道を、中国人の列がえんえんと大使館を目指して歩いてゆく。陳腐だが「長征」という言葉が脳裏に浮かんだ。途中、誰かがつけっぱなしにしているラジカセから、今日ホメイニ師が死んだというニュースが聞こえてきた。イランでも遠からず天安門のような広場が出現するのだろうかなどと思いながら歩いていくと、大使館のはるか手前で、群集はせき止められていた。巨大な弔いの花輪を掲げた先頭が、警官の壁に波のように繰り返して押し寄せる。誰かが歌い出すたびに、「国際歌(インターナショナル)」や中国の国歌「義勇兵行進曲」の合唱が起こった。こんな場面で、権力と向かい合って歌える国歌をぼくらは持たない。
結局この日の行動は、花輪を届ける代表に限って大使館に行くことが許可されて解散となった。だが帰り道、何人もの留学生たちの話を聞き、ぼくらも何かしなくてはという気持ちには火がついてしまった。この後、それが形になってゆく中で、本編の副主人公である太田リョウとも再会することになるのだが、この続きは後編で。