「馬の骨」のころ・後編

(前編のあらすじ)

1989年4月2日、ぼく(鹿島)は反原発運動のなかで知り合った漫画家志望の山本、パンクの林君、フェミニストの幸渕などとともに、反天皇制などを掲げたライブとデモを主催。デモには謎の男、太田リョウが現れ、野次馬を巻き込んで異様な盛り上がりを見せる。これを機にぼくたちはグループ「馬の骨」を結成。東京電力PR館で騒ぐなどの行動を行う。6月4日、前夜におきた天安門事件に抗議する中国人留学生のデモに偶然にも唯一の日本人グループとして参加する。(以上)


天安門事件が当時の日本でどう受け止められたかを思い出すと、人質事件の被害者が糾弾される今の日本と、あれが同じ国だったのだろうかと不思議な気持ちになる。日本政府の排外主義と冷たさは当時も変わりなかったが、人々のなかには素朴な国際連帯の感情があった。

中国共産党学生運動を弾圧した事件であったが「だから共産主義は怖い、日本も共産主義に気をつけろ」「だから中国人は怖い、日本も中国人に気をつけろ」「やっぱり遅れた国だ、日本に生まれてよかったなあ」といった類の声を聞くことはほとんどなかった。自由を求めて闘った学生たちにまっすぐに敬意をあらわし、彼らを助けようという声のほうが圧倒的に大きかったように思う。

今で言う「サブカルチャー」系の書き手たちは、雑誌『宝島』などを舞台にいっせいに北京の学生運動を評価する文章を書いていた。えのきどいちろうなどは集会で発言までしていたのを憶えている。天安門事件に抗議し、民主化運動に関わった中国人留学生を守ろうという動きの中心は左翼やリベラルな知識人たちであって、文春などに集う保守派ではなかった。

運動界隈では様々なビラや個人のアピールが出回った。とにかく一言言いたい人が多かったのだ。「60年安保で樺美智子さんが殺されたとき、毛沢東主席は哀悼の漢詩を贈ってくれた。今こそ日本人民は中国人民への恩を返すときだ」と書いたおじいさんもいた。もちろんこの人は学生を支持しているわけだが、当の中国人学生たちが聞いたらひっくり返るかもしれない。だが、このアピールは当時の事件の受け止められ方を象徴している。

天安門事件は、アジア各国で民主化運動が連鎖していた当時の情勢につながっていた。北京の学生たちは、運動スタイルにおいて韓国の運動の影響を受けている気配があった。韓国風のシュプレヒコールをしている学生の映像を見たこともある。各国の運動に鼓舞された北京の学生たちの動きは、再び各国に影響を与える。台湾では学生たちが台湾の民主化を求めて広場に座り込みを始め、ベルリンの壁は崩壊する。日本では翌年の釜が崎暴動で、おじさんが「お前ら、天安門と同じことやっとるやないか!」と機動隊に向かって叫んでいた。

「馬の骨」も、天安門事件には衝撃を受けていた。ぼくらにとって天安門広場は、4月2日のデモで垣間見た「自由な空間」そのものだった。悲壮な決意とともに、天安門広場にはのびのびとした雰囲気があり、各人、各グループの自己表出が楽しげに咲き乱れていた。雲南省の学生たちだったのだろうか、ダンボールにカラフルな配色で書かれていた「雲南義勇軍」なる文字は今も忘れられない。うらやましかった。こうした感性は当時、決して超少数派というわけではなかったと思う。

アジア人権基金は中国人留学生に特別在留ビザを求める署名を始めていたし、多くの集会も開かれていた。そういうなかで、「馬の骨」だからこそやるべきことは何か―例のたまり場で議論を重ねた。虐殺に抗議し、中国人留学生に連帯を表明するのは当然だが、ぼくたちはあそこに自由な広場があったことをこそ思い起こそう。そこにあった自由への思いをこそ追悼しよう。そんな結論になった。

具体的には原宿ホコ天での路上ギグ(ライブ)を行い、ここで留学生保護の署名を集める。このイベントは「天安門広場での虐殺抗議・追悼ギグ 五月のある日」と名づけられた。「五月のある日」とは、弾圧の1週間前、天安門広場でギグをおこなった学生バンドの名前だった。今思えばこれは新聞の誤訳で、本当は「五月の空」だったのかもしれない。いずれにしろ、五月のある夜、戒厳令下の天安門広場でライブを楽しんだ同世代の若者たちの思いを、ぼくらは共有したいと思った。

ぼくらは、地域ユニオンに顔を出す外国人労働者たちの協力を得て、日中韓英の4ヶ国語でビラをつくり、各地でまいた。「私たちは天安門広場の自由に憧れていました…だからこそ、この虐殺を許すことはできないのです」といった文面だった。ぼくらの表現が日本に来ている人々に届くかどうか疑問だとは思っていたが、そうしたかったのだ。

さて、会議では演奏の合間にアピールしてもらうゲストとして誰を呼ぶかで議論になった。幸淵が強力に押したのは「反戦自衛官」だった。

反戦自衛官というのは自衛隊内で反戦兵士運動をやっている人々だ。反戦自衛官第1号の小西誠さん以下、当時は中核派の傘下にあった(現在は袂を分かち、内ゲバを引き起こすような前衛党理論を批判している)。当然、ぼくは気が進まなかった。前編で書いたように、出身大学の多くの先輩たちが中核派から暴力を受けてきたのだ。もちろん、反戦自衛官という運動の重要さは認めるし、閉鎖的な兵営のなかでそうした運動を行う人々の勇気は尊敬する。だけど中核派と関わるのはごめんだ。こっちからわざわざ呼んでしつこいオルグを受けるのはいやだ―。

ぼくは非常に渋ったが、幸淵は折れなかった。山本や林君たちは、間で気まずい顔をして黙っていた。ぼくが大学で見てきたような中核派の恫喝政治を、実際に身近に経験した者はここにはいないから、次第にぼくが不利になってくる。自分でも、つまらないことにこだわって大事なテーマを逃そうとしているのかもしれないという気持ちを否定できなかった。こういうとき幸淵は、にっこり笑ってこちらの目をのぞき込みながら、ゆっくりと畳み掛けてくる。

「あたしは小西さんを少しは知ってるけど、強引なオルグをするような人じゃないよ。天安門では、人民を守るはずの軍隊が人民に銃を向けたんだよ。同じ兵士として自衛官たちがどう受け止めているか。これって私たちにとっても大事なことじゃない?」

幸淵の言うことはまちがってない。ぼくはしぶしぶ同意した。

7月の何日だったか、当日はまさに五月の空のように快晴だった。会場は原宿ホコ天の奥。ライブでは〈秋の嵐〉系のハードコアバンド「ヘルネーション」の穴水君などが今回だけ結成した「サイレンスデス」に林君も参加、細っこい腕で力強くドラムを叩く姿を初めて見ることができた。それまで山本とぼくは「林君、なんか演奏できるのかな?格好だけだったりして」などと陰口を叩いていたのだったが。

数十人くらいが来ただろうか。『黒』編集委員の中島君も姿を見せた。ブラックジーンズに黒いTシャツ、黒いサングラスと黒づくめ。なんか怖そうなヤツだと思った。参加者は大きな赤旗に寄せ書きをした。「虐殺糾弾!じじいども皆殺しだ!」と書いたのは、後にロフトプラスワン戦旗派に襲撃されたことで有名になる佐藤悟志君だ。

〈秋の嵐〉系を中心に運動周辺のバンドがいくつか演奏した。今のことばでパワーロックというのだろうか、突然、ぼくらのところに参加を志願してきた「突発豚」のパワフルな音が印象に残っている。全員東京土建の組合員というバンドだった。

さて、いよいよ反戦自衛官からのアピールとなった。この日、現れたのは小西さんではなく、現役自衛官の佐藤備三さんと片岡顕二さんだった。片岡さんがマイクを握る。兵士には見えない、華奢な人だ。「この場に結集されたすべての市民学生の諸君!」などと始まるかとひやひやしていたぼくは、自分の不明を恥じることとなった。片岡さんはとつとつと語り始めた。

…どこの国でも、都市の中心には広場がある。民衆はときにその広場に集い、権力に異議申し立てを行う。広場は人民の自由と自治の心臓だ。ところが日本の都市の中心には広場がない。だが一瞬だけ、民衆が東京のど真ん中に広場を勝ち取ったことがある。1952年の皇居前広場、血のメーデー事件だ…。

片岡さんの口調は一貫して静かなものだったが、そこにいた人々はみな歓喜して手を叩いた。そうか!原宿ホコ天で「天皇制反対」を叫んで無届けデモをしたり、電力館で騒ぎを起こしたりしているぼくらと天安門の学生たちとが、「広場」で結びつくんだ!さっきまでの警戒感はどこへやら、ぼくはすっかりこの二人に心服してしまった。

この日については後日談がある。ギグの最中、香港のTV局が撮影に現れた。原宿ホコ天を取材に来て、偶然このギグにでくわしたのである。大晦日に『アジアの若者たち』という番組を放映するのだという。数日後、幸渕、山本、林君の三人は「日本の若者代表」として長いインタビューを受けた。ギグの様子とあわせて大晦日の香港で放送されたらしい。それから一年後、ぼくらは突如、謎の香港人の訪問を受けることになる。アナキスト劇団のモックさん一行だ。モックさんの手には、ぼくらが作った中国語版のビラが握られていた。TV局に「あの日本の若者と連絡をとりたい」と言ったところ、ビラをもらったらしい。そのまた何年かあとに日本でライブをやった黒鳥(ブラックバード)はモックさんの仲間なのだが、それはまた別の話。


片岡さんの「広場」をめぐるアピールに刺激を受けて、「馬の骨」の定例会議(と称したダベリ)では、「広場」ということばが非常に思い入れをもって熱く語られるようになった。その思い入れは、ついには「広場主義」なることばまで生むに至った。内容はこうだ。

ぼくらが街頭でなにか表現しようとすると必ず警察が現れ「ここは道路だ。立ち止まるな。通行のじゃまだ」という。ぼくたちは労働者として、あるいは消費者として決められた道路を歩かされる。用意された選択肢を選ぶだけの「自由」。そこには可能性と呼べるようなものはない。人は他人の背中を見るか、すれ違うかだけであって、出会うことはない。思えばぼくらの人生そのものが「ここは道路だ。立ち止まるな。通行のじゃまだ」と言われながら歩かされているようなものになり果てている。

こうした道路的秩序をぶちこわし、「広場」を現出させること。そこではじめてぼくらは誰かと出会い、生の可能性と出会う。街頭に「広場」的空間を現出させる運動は、街頭秩序の切断を超えて「生の広場」を現出させることを目指すのだ。そうした「生の広場」経験を通じて生の可能性を実感できなければ、政治的な変革なんて想像もできないことに止まるだろう。なるべく深く広く「広場」を現出させること。そのためには「出来事」の爆弾を「道路」に投げ込まなくてはならない。

こうした論議を、ぼくらは「道路主義」「広場主義」「革命的出来事闘争」などといった造語で語った。革命的、というのは、まぁど根性の「ど」くらいの意味である。こうした空論的なおしゃべりの中心はたいてい、ぼくと山本で、幸淵はこうしたやりとりをニヤニヤとやり過ごしていたし、林君はそんな屁理屈にはなんの興味もないという顔をしていた。「で、次は何やるんだよ。早く決めようぜ」というのが彼のスタンスだった。だが、こうしたやりとりを面白がってくれる人物が突然、現れたのだ。太田リョウである。

実は反戦自衛官の小西さんはやはりぼくらを中核派オルグしようと考えていたのだった。「あいつら面白そうだからオルグしてこいよ」という命を受けて、ある日、馬の骨の定例会議に現れた中核派の「若い衆」二人、そのひとりがなんと太田リョウだった。4月2日、突然現れて野次馬を見事にあおってみせたあの男である。彼は小西事務所の居候だったのだ。もう一人はクリト君といって、パンクスだった。当時、戦闘的なイメージに惹かれて中核派に行くパンク青年は少なくなかった。

三派系の集会に賛同団体として名を連ねてくれないか、というのが彼らの直接の要請だった。これにははじめからまったく誰も聞く耳を持たなかったから、クリト君のほうはあっさりとあきらめて二度ほど来たあとは顔を出さなくなった。ところが太田君のほうはその後も毎週現れるようになった。と言ってもとくにオルグめいた話をするでもない。みんなのとりとめのないおしゃべりに面白がって聞き入り、爆笑を引き起こす独特のコメントをはさんでくるだけだ。あとで本人が言っていたところによれば、ぼくらの話に赤瀬川原平宮武外骨がよく出てくるのが気に入ったのだという。彼も二人の大ファンだった。

「出来事闘争論」には赤瀬川原平の「超芸術トマソン」の影響があった。街路や建築物の外観に意味のほころびを発見するトマソンを、ぼくらは道路的秩序に亀裂をつくる「出来事」として読み替えていた。だから後に赤瀬川が「トマソンはわび、さびだ」などと言い出したときはがっかりさせられたものだ。

「こいつは中核派だぞ」と警戒を解かないぼくを尻目に、みんなは愛嬌があって魅力的な太田君を、すぐに昔からの仲間のように歓迎するようになった。とにかく話が面白いのだ。次から次へと奇想天外なエピソードが出てくる。「お前には協調性がない」と暴走族入りを断られた話。卑怯な手を使ってヤクザとのケンカに勝った話。昔つき合っていた過激に暴力的な彼女の話。近所の立ちんぼのお姉さんに叱られた話…。

権力を前にしたときとは打って変わり、普段は気を使いすぎるくらい気を使う男だった。このとき27歳前後だったはずだが、その若さで充分に不思議な人生を送ってきたことが次第にわかってきた。

太田君は、葛飾の貧しい家に生まれた。「親父がカタギじゃなかったから、共産党も相手にしてくれなかった」と言う。「だから、共産党がいやがる右翼になってやろうと思った。ホントはヤクザになりたかったけど、根性がなかった」。彼は金町一家に属するテキ屋に就職、御徒町の駅前で花を売り始める。長髪にアーミージャケットの彼は「おかちのヒッピーさん」としてホステスさんたちの人気者になった。

テキ屋は天職だと感じていたが、朝鮮人や来日外国人を差別する「社長」に我慢できなくなり、嫌がらせのため売り上げをごまかすようになった。さらに後輩たちにもその方法を伝授して発覚、半殺しにされそうなところを「兄貴」に逃がしてもらう。

以後、右翼やヤクザなどを経由して放浪のすえ、中核派にたどりついたのだった。

彼の半生を貫いているのは、強い者への反発、とくに女性への暴力に対する怒りだった。これは正義感とか信念というより執着といえるほどの感情であったように思う。それはマッチョなものではなく、どこかお母さんをかばう幼い子どもを思わせるものだった。

子どもの頃、いじめられっ子だった彼を助けてくれた女の子が、いじめっ子に「いたずら」されたこと。そのいじめっ子の家に火をつけてやろうとしたが、ついにその一歩が踏み出せず、ガソリンにひたしたネズミの死骸を手に、そいつの家の前で一晩中泣いたことを、昨日のことのように語っていたのを憶えている。「それで俺は活動名を『川辺マコト』にしたんだ。あいつの名前で悪いことをしてやろうと思ってね」。

中核派のデモで「第二、第三の浅草橋を勝ち取るぞ!」と叫ぶべきところを「中村橋を勝ち取るぞ!」とくり返し言いかえて叱られたという話も笑いながら語っていた。浅草橋は85年の国鉄ゲリラのときの中核派の闘争で、中村橋は精神を病んだ元自衛官が交番を襲った事件だ。当時はよくわからなかったが、単なる「警官殺し」をめぐるきわどい冗談ではなく、ぼくらには見えていなかった別のリアリティを彼は見ていたのだと、今になって思う。彼はいつも「変な人」「嫌われる人」の側についた。

そんな太田リョウにとって、当時の日本ではほとんど一人で「売春婦の人権」を掲げたフェミニストである幸淵に会えるということが、馬の骨の定例会議に通うことの最大の意味だったことは想像に難くない。普通の意味での恋愛感情とは言えないかもしれないが、太田君は幸渕に確実に惚れていた。山本もそうだったはずだ。

太田リョウはこうして、ミイラ取りがミイラになるように「馬の骨」のメンバーになっていった。中核派オルグに来たのだということは本人も含めてすっかり忘れられていた。


さて、その後の「馬の骨」の運動には、4月2日のイベントから引き継いだふたつの要素が並立していた。ひとつは「出来事闘争」。もうひとつは運動に新しいやり方や彩りを提供する「イベント路線」。どちらも実際には幼稚なレベルの話ではある。

「出来事闘争」のほうは、動物愛護グループと共闘して、象を目玉にした24時間テレビのパレードに抗議、パレードに執拗に乱入して中継をほとんど不可能にした「24時間テレビ粉砕闘争」、泊原発の営業運転開始に抗議して乱入した「北海道電力東京支社『社内集会』実力開催闘争」など、今思えばよく逮捕者が出なかったものだという無謀なことをくり返した。「国労がんばれ」というシールを作って山手線の全駅構内に貼ってまわったこともある。

「イベント路線」の方は、たとえば新しいシュプレヒコールの発明。「核燃粉砕!」とトラメガが叫ぶと『やっちゃえ!やっちゃえ!』とこれに唱和する「やっちゃえコール」や、「天皇!」『バツバツ!』「皇族!」『バツバツ!』「みーんなまとめてやっつけろ!」『オウ!』という「バツバツコール」などが作られた(正確に言えば「バツバツ…」の起源は〈秋の嵐〉の渋谷君による「ばきばきコール」)。他のグループや市民団体にもぜひ使って欲しかったのだが、残念ながらほとんど広まらなかった。

また当時ロック関係の若者のあいだでバッジが流行っていたのだが、これに乗ってメッセージ性の強いバッジを制作した。山本は漫画家志望だったが、ポップなデザインセンスにも恵まれていた。彼のデザインによるこれらのバッジは集会やコミックマーケットなどで大いに売れた。シンプルな反戦マーク、黒旗、反核もの、ゲイ差別に抗議するもの…20種類近くは作ったのではないか。デザインとして最も秀逸だったのは重信房子の指名手配写真をコラージュした「Fusako coming back soon!」と題したもの。べつに赤軍の思想に共鳴していたわけではないが、権力が嫌がるようなバッジを作りたかったのだ。これも売れに売れた。

みんなで幾晩か泊まり込んでバッジをひとつひとつ組み立てた。馬鹿話をしたり、持ち寄ったマイナーなバンドのテープを聴いたり、山本が幸淵にからかわれて怒ったりしているうちに、朝になる。そんな日々であった。

原発を掲げた「原発いらないブクロ祭」という野外ライブを始め、反原発の集会も何回か開いた。毎回遊びを込めたビラを作っては、予備校や高校の門前でまいた。教師がいちゃもんをつけてくるのが常であったが、生徒たちの面前で激しい議論をふっかけて彼らを立ち往生させることも「出来事闘争」の一環だった。

年も暮れるころには、ぼくらも次第に知恵づいてきて、ようやく自分たちのセンスを保証してくれそうな本を探すようになった。当時人気があったコラムニスト山崎浩一の『退屈なパラダイス』、かなり遡って渋澤龍彦神聖受胎』、ライヒ階級意識とは何か』(これは隠れた名作!)、竹内芳郎『文化と革命』などなど。この頃はドゥルーズガタリの『分子革命』が大流行していたが、ぼくらには難しすぎた。

そうして知恵の実をかじったせいだろうか、「馬の骨」の作風は微妙に変わってきた。この年の末、世論を震撼させた幼女連続殺人事件をテーマに討論会を開催。そこでは、事件を機に噴出したおたくバッシングに対して、おたくを自認する山本が、その背後にある「男らしさ」志向を指摘、男らしさからの解放=「メンズリブ」を提起した(数年後には、おたく男を中心にした「メンズリブ東京」が山本も参加して結成される)。

このときの報告パンフで、太田リョウの文章をはじめて読んだ。広告紙の裏にすさまじく汚い字で書かれたそれには、異様な迫力と詩心とユーモアがあった。「おれたちにはもっと体液が必要だ。血と涙とビチグソが」「ごみためでけっこう、泥の中のほうがまだましだ!」という一節を憶えている。つなぎ姿でぼろぼろのリュックを背負い現れては、キャットフードにマヨネーズをかけて食っていた太田君のイメージそのままであった。

89年12月末、馬の骨は『宝馬』と題した同人誌を発行する。表紙は白ヘルをかぶった太田リョウの顔のアップ。白ヘルには「過激派」と書いてある。前歯の抜けた口をニッカと開いた笑顔が迫力満点だった。公園やスーパーで「過激派」ヘルメットをかぶった「馬の骨」各メンバーのグラビアページ(もちろん白黒)を入れるなど、ふざけた内容が中心だったが、幸渕が書いた漫画「性のショウヒンカ」は各方面で評判になった。売春をしながらセクトの活動をしている女性を主人公にしたストーリーで、初めて書いた漫画だったらしいが、絵もセリフもあとに残る味わいがあった。

この「性のショウヒンカ」には、太田リョウの詩が内容と無関係だが微妙にシンクロするかたちで書き込まれている。ちょっと抜粋してみよう。

 鉄格子にしがみついて/「ここから出せ」とさけぶ事さえ/許されないのだ。/どう許されないのか説明もない/『この先キケン』のプラカードを持つ/鉄格子の番人たち/オイ!プラカードのはしっこに頭皮のはしが見えるぜ(…)

 もっとましな世の中を夢みるだけでも/それなりのカクゴがいるという事か。/ならばあえて/昨日あかつきにかけぬけ/今日プラカードのはしっこに/しがみついたあいつの/まだらにそめた髪の毛のように/命がけの悪あがきをしよう。/いますぐに
 あいつと(あいつの)同じ星を見た仲間達よ/手さぐりで持ち場にたどりつけ/オレタチは皆トクイのエモノをフトコロにクールにふるまおう。

 鉄格子のかなたにゃどんな風がふくのか/あいつのまだら髪に聞かなきゃわかんねえが/心臓にもとどかぬ「ちっぽけなナイフ」を/素手なら撃たれる事もないと/わざわざ丸ごしで殺られちまった/奴の甘さを/ちっぽけなナイフをえらぼう(…)

『宝馬』は300部があっという間に完売した。勢いがあったのだろう。

だが、そこまでだった。年が明けると、「馬の骨」の定例会議は停滞したムードを見せていた。

4月2日からの8ヶ月、よくもこれほどというほど、いろんな行動やイベントを打って来た。それもこれも、「出来事」や方法の提起によって運動を活性化させ、「広場」の創出に近づきたいという思いからだった。

確かに、なにか新しいことをやるたびに新しい仲間が増え、定例会議はにぎやかになっていった。会議に突然現れ、右翼少年ではないかとぼくらをびびらせたスキンヘッドの佐々木君、いつも静かに議論に耳を傾けていた民青同盟員の「民青君」、南野陽子親鸞にしか興味のない宇田川君、カンコンとともに「幸淵の娘たち」と言われたミカちゃん、元戦旗で洋楽マニアの小園君…。だが、気がつけば、行動計画を一緒に考える面子と、すべてが決まるまで離れたところで待っている面子とに、定例会議の「場」は二分してしまっていた。そこには「広場」がなかった。なにかを提起しても空回りになる予感が先立った。年が明けて何ヶ月かが、そんな調子で過ぎていった。

太田リョウの乱入から始まった「馬の骨」だったが、この停滞を突如として破ってみせたのも、やはり太田リョウだった。

1990年4月1日夜、太田君は桜田門の警視庁本庁に単身で乱入したのである。

彼は警視庁の宿直警官に「警視総監に会わせろ、いなければここで一番偉い奴を出せ」とわめき散らした。この椿客を小馬鹿にした警部が「一番偉いのはオレだよ」と言うと、次の瞬間、太田君はこいつを殴り飛ばした。当然、その場で逮捕、起訴となったのであった。

太田君の行動は、その数ヶ月前に中核派の活動家の藤井世都子さんが屈辱的な身体捜索を受けたことへの抗議だった。

藤井さんは女性グループとともに、この身体捜索への抗議行動を展開していた。太田君は3月、この運動に中核派が党として取り組むべきだと主張して、「党内闘争宣言」を掲げたハンストを、なぜか代々木公園で行っていた。そして4月1日、以前から冗談めかして公言していた通り、警視庁に殴り込みをかけたのである。

この行動は当の藤井さんや女性たちには評判がよくなかった。男に代わって闘ってもらうことではないというのである。至極当然な批判だろう。

この事件をきっかけとして「馬の骨」はあっけなく解散することになった。幸渕、カンコン、林君は太田君の救援に関わらないことを宣言していたし、一方ぼくや山本は、〈秋の嵐〉の人々と一緒に救援で忙しく動くようになったからだ。中核派は、幹部が留置所に面会に来て「もうお前にはつき合いきれないよ」と言って太田リョウの党からの破門を通告した。そのため、太田救援は〈秋の嵐〉と「馬の骨」残党の数人で担うことになったのであった。

幸渕は太田君の願いで一度だけ証言台に立った。「被告人はどんな人ですか」と尋ねられた幸渕は「馬鹿です…そしてやさしい人です」と答えて、太田君を泣かせた。

判決後の6月に執行猶予で解放された太田リョウは、小西事務所の荷物をまとめると、〈秋の嵐〉の赤井君の家に転がり込んだ。そして、そのまま何となく〈秋の嵐〉の会議に参加するようになり、気がつくとその後を追ってぼくと山本も〈秋の嵐〉メンバーになっていた。

前編で記したように、かつて太田リョウがぼくらの前に初めて登場したとき、そのテキ屋口上は思いもかけぬ野次馬の合流を引き起こした。そしてまた今回も、釈放後の太田リョウの参加を引き金に〈秋の嵐〉の作風は一変してしまう。太田リョウのテキ屋口上の影響を受け、他のメンバーの街頭でのしゃべり方も、伝統的左翼調から解放されていったのだ。そして10月、そうした〈秋の嵐〉と家出少女の出会いから、原宿ホコ天(正確には神宮橋)に「スピーカーズ・コーナー」が誕生する。反天皇制を掲げつつ誰でもマイクをとって語るコーナー、不良少年少女たちが学校や親への不満をぶちまけ、ホームレスが自分の人生を語る空間だ。「文句があればここで言え」がスローガンである。

そこには、かつて「馬の骨」でぼくらが語っていた「広場」が確かにあった。〈秋の嵐〉ではここを「神宮橋広場」と呼んでいた。見津君が北京で買ってきた天安門のハンドマイクも大活躍した。しかしこの「スピーカーズ・コーナー」と〈秋の嵐〉の顛末については、また別の機会に書くこととしよう。話をもう一度、「馬の骨」と太田リョウというテーマに戻す。

一昨年、ぼくは太田君の獄中からの手紙を押入から発掘し、当時は気がつかなかったその面白さにうなった。そこには、中核派オルグとして「馬の骨」にやって来て最後には組織を追放された経緯を彼がどう総括していたのか、たまり場での連夜のおしゃべりをどんな風に聞いていたのか、それを伺わせるものがあった。数ヶ月後に誕生する「スピーカーズ・コーナー」を予告しているかのようなところもある。

「党派の人間にどうしてもできないのは−やりたくてもやれないでガマンするのは−弱者の強さだよ。弱者は常に危険なんだ。」

「もっと正直に厚かましく誰にでもある『想い』を『言葉』に。誰にでもその『想い』が『言葉』になる『やり方』で。俺たちガキでいいじゃない。反抗期上等!」

「やっぱりこの手の攻撃に強いのは党派よりも『名無しのゴンベエ』だ。彼ら彼女らが反逆するためには、自由と民主主義ってやつを危険でオモシロイものに変えちゃえばいい。俺たちの肉体からどれだけ言葉が生き返るかにかかっている」

「革命は前衛が行うんじゃないよ。ソビエトは名もなき雑民が自らつけた自分自身の名前だったんだ。コンミューンは彼ら彼女らの『想い』が爆発し、彼ら彼女らの『行動』により、彼女彼らの言葉となった。『世界の誰でも分かる言葉』になったんだ。言葉は力を持った」

「誰にも信じてもらえなくなっちまった言葉を、俺たちの『想い』込めた行動で生き返らせてやろうよ。」

「すでに俺たちは『天安門』『ベルリンの壁』『尾崎豊』まで、言葉になりきらない『言葉』で自分の『想い』をつなぎとめようとしてるじゃないか」

「いつでもどこでも誰にでも中毒になりそうな楽しいことに『反天皇』がなればいいと思ってるんだ」

「馬の骨」で語られる「広場」とか「道路」といった言葉はいまだ抽象的で切迫感がなかったのだと思う。そこには体液が足りなかった。つまり「血と涙とビチグソ」が。信念などというには生々しすぎる強者への怒りを抱いて、チンピラとしての生を生き抜いてきた太田リョウの目には、「道路」のわきに行き倒れる人々が映り、その血のにおいが鼻をついていた。太田リョウは、そんな場所から「広場」を目指したのだ。たまり場でのおしゃべりのなかから生まれた「馬の骨」理論に、彼は体液を注入してみせた。こうして「スピーカーズ・コーナー」は、彼が放浪のなかで得たものの集大成となった。

「スピーカーズ・コーナー」が存在したのは、1990年10月から91年5月まで。ほんの一瞬のことだ。太田リョウは、そこで出会った家出少年少女たちと「壁の穴」と名づけたアパートでしばらくの共同生活を続けた。その後もずっと彼女ら彼らを応援し続け「オトウサン」と呼ばれていた。放浪の人生は続き、数年前からは街頭の占い師になった。街頭で人の相談に乗るのは、彼の天職だったから、けっこう繁盛していたが、02年夏、肝臓ガンが見つかった。末期だった。

02年10月3日、肝臓ガンで最期のときを迎えていた大田リョウ(注)の病室には、「壁の穴」の元家出少年少女たちがほとんど全員集まっていた。この1ヶ月、彼女たちは太田君の看病を続け、この日も冷え切った手と足をずっとさすっていた。感覚はもはや聴力しか残されていなかったが、意識がかすんでいく中で、大田君は「娘たち」に最後までおどけてみせた。久しぶりに姿を見せた幸渕が、耳元で「大田、フェラチオしてやろうか」と言って笑う。〈秋の嵐〉やゲイの仲間たち、ハレクリシュナのあんちゃんをはじめとする街頭の友人たち。占いの常連客もいる。狭い個室は二十人を越える仲間たちで立錐の余地もなかった。
午後四時過ぎ、急変を聞いて病室に駆け戻ってきた山本が、怒ったように「大田!大田!」と声を張り上げた瞬間、大田リョウは呼吸を停止した。

注:太田リョウは、死の何年か前からは「太田」の字を「大田」と表記するようになりました。だからインターネットで検索するなら「大田リョウ」のほうがヒットします。

(文:鹿島拾市)