浅羽通明なんて、懐かしいね。

johanne2004-08-29

浅羽通明さんが書いたちくま新書アナーキズム」に「マルクスガール」に関する記述があるというので捜してみる。能川店長が去った高円寺文庫センターには案の定なくて、南阿佐ヶ谷の書原に行く。あるよ、しかも平積み(w

アナーキズム『おたく』趣味満載の怪作」とは、喜んでいいのか……「どおくまん」や「かわぐちかいじ」と肩を並べて記されたのだから、いいことにしよう。内容はまだ通読していないけれど、初心者向けのテキストといった感じ。アナーキズムが「主義」というより「気質」とか「傾向」とか「信念」みたいなモノで、だからこそボルシェヴィキに敗北しながら漠然と神話化されて生き続けている…ということを言いたかったのかな?僕的にはこの人の自称「弟子」みたいな人のこじれっぷりに辟易して、近づかないようにしてたんだけど。浅羽さんだけじゃなく、呉智英さんとか、唐沢俊一さんとかの界隈で展開される「師弟関係」の湿気が苦手。「師匠」を演じる人の余裕のなさと、こじれた「弟子」の思いこみが空回りしながら結託して、他者を寄せ付けない密度を形成している感じ。ある種のマイスター制度が必要だっていうのは僕も同意するけれど、「師弟関係」の根拠に儒学を持ってくるようなのは、ちょっと違うんじゃないかと。ホモソーシャルなんてレッテル貼りで貶める短絡はさすがにしませんが、「中庸」や「相対的価値観」を育てるという以前に、「不安感」とか「劣等感」とか「焦燥感」とか「逆恨み」に縛られている迷子をなだめてあげないと。

以前、コラムニストの山崎浩一さんとお話ししたとき、
「'70年代末から始めた『価値相対主義』という『革命』は、硬直した左翼アカデミズムを徹底的に粉砕し、勝利した。ナイキのシューズとゲバラを同じ紙面の両隣で語る『POPEYE』が、岩波や朝日の権威を失墜させた。けれど、徹底的な破壊の先に広がる荒野を見て呆然とした。左翼アカデミズムの廃墟に乗り込んで『知識』の砦を受け継ぐ人がいなかったのだ。」といった経験談を聞かせてもらいました。ある意味、この20〜30年って、こうした不毛な闘争の連続で、人間にとって必要な「知識」や「教養」を獲得する場が凋み続けているような感じがするのですよ。もちろん、その前段には巨大な「権威」としてドグマを強要したアカデミズム側の責任があるのですが。浅羽さんや呉さんの試み、もしくはニューアカブーム、あるいは長崎浩さんや笠井潔さんの「マルクス葬送派」の提起などは、繰り返されることで痛烈なカウンターパンチを老人達に浴びせてきたと思います。もっと遡れば、吉本隆明谷川雁もそうだったし、そもそも新左翼全共闘は存在そのものがカウンターカルチャーだったはずです。いつの時代も志高きスパルタカス一揆によって旧弊は打ち倒されたはずなのに、そこには途方もない廃墟が残り、以前よりたちの悪い虚無と退廃が伝染していく。

闘争の現場が活字媒体からネットに移行したことで、「価値観の相対化」は黙示録の獣のような本性を剥き出しにしてきた。誰も真実など求めない。事実の検証もしない。その場の空気、雰囲気。不安やコンプレックスやルサンチマンが衝動となり、「相対的な価値観」は支点を失い、熱狂が事実と真実を呑み込んでいく。カウンターが無効だったのではない。むしろ、充分すぎる効果によって、その一撃を放った当人すら予想だにしないスペクタクルとなってしまったのだ。

けれど、僕らは既に知ってしまった。「絶対的価値」など存在しないことを。「歴史的必然」も、「科学的根拠」も、所詮「揺るぎなき信仰」と同義でしかないとしたなら、僕らは何を信じたらいいのか?すべてはエゴで、自分の内心が捏造した幻で、意味も価値も思いこみの中にしか存在しないのか?

さすがに、そんなことはないと思っているのです、実は。「意味」や「価値」や「倫理」や「真理」が散逸してしまっているなら、拾い集めて寄せ集めて、再建すればいい。それをする努力を怠らず、愚直に誠実に繰り返すことで、なにかのかたちを作ることはできると思うのです。……ってか、そう思わなきゃやってらんねぇ。

随分な飛躍でした。妄想警報発令。

あと、「師弟関係」と言えば村上隆さんの工房をTVで観て。彼はお弟子さん達のこじれを上手にいじって楽しんでいるように見受けました。実際、あんなもんでしょ。