「レボリューション6」(2002/独米/監督:グレゴー・シュニッツラー)

上映終了後。「まんま俺のマンガじゃないかよ!*1…というのは自意識過剰としても。懐かしく、切なく、うれしい感情。登場人物の一人一人が、かつての「仲間」の姿と重なる。
ティムは大田リョウ、ホッテはクロさんか。テラーは渋谷かもしれないし、ネレは桐原か、サワさんか。フローは…セイヤあたりだな、役柄として。俺はマイク…と言いたいところだが、状況によってはホッテだったのだろう。代々木署のカメがマノフスキー刑事というのは誉めすぎか。

なんのこっちゃい。要は、そのくらいシンクロして観る映画だったのだ、僕にとって。
1987年の西ベルリンで「不法占拠(ハウス・スクワット)」をやっていた連中が、十数年後に目を覚ました手製の圧力釜爆弾によって再会を余儀なくされる。廃屋に住み続け、しょーもない抵抗運動を続けるティムとホッテ。広告業界の若きカリスマにのし上がったマイク。弁護士となり、かつての面影もないテラー。ベビーシッターでシングルマザーのネレ。女の幸せ一直線中のフロー。かつての火遊びの後始末に奔走する彼らを執拗に追い続ける老刑事マノフスキー。あんまり美しくもかっこよくもない展開は、大人になりきれない三十路の青春に総括を迫る。あまりに稚拙で漠然とした彼らの目指した理想郷は、僕らがかつて見ようとしたものとあまりにも符合している。
サヨク思想なんてファッションだし、たまたまそこにあったから遊びの道具に使ってみた。でもまぁ、そこから派生するあらゆる体験が面白くてしょうがなかった。ドイツのスクワッター運動は僕らのあこがれだったけど、僕らは模倣したわけではなかった。規模の違い、文化の違い、階級意識の違い、そんなことはあっても、僕らはその瞬間、内心に置いては世界同時革命を共有していたことになる。なんという僥倖。なんという快感。そして映画の中で語られる「快楽の共有」こそが、選ばれし者、選び得た者だけに与えられる特権だったのだ。
くだらない、実にくだらない自己満足だ。だが、一瞬でもその特権を得た人間にとって、現実との折り合いという通過儀礼は苦行そのものだ。しかも僕らには、全共闘オヤジが駆使する屁理屈や言い訳としての革命思想の体系などないのだ。だって、バカだから。
バカでオタクで青臭い三十路の苦闘を描いた作品としては、去年観た「ハイ・フィディリティ」も面白かった*2。シカゴで中古レコード屋をだらだら続けるレコヲタの主人公も、ある意味、同時に世界を享受していた人間として映った。そうやって、世界の同時性を感じるやり方は、もはや有効ではないし、郷愁以外の何者でもないかもしれない。ならば、今の僕に何ができるのか?いや、何かできるのか?



やれることはありそうだ。


*1:エス/太陽はボクらの敵」(実業之日本社)「マルクスガール」(秋田書店)といった、鹿島拾市曰く「この世界でわずか20人弱の人間にしか通用しない含意を仮にもメジャー誌で描くアホはお前くらいだ」という評価は喜ぶべきか悲しむべきか。何だよ、ドイツにもいるじゃねーか!(w

*2:この2作品はダメ30代映画の金字塔かも。「さらば青春の光」は、すでに青臭い以前の人間にとって。