何を伝えるべきか。

「NOと言える日本」とのたまった方に、本当に聞きたい。いま、「NO」と言わずに、これから先どこで「NO」というのか。人身御供を送り込み、首を長くして「犠牲者」を待つ。そうやって勝ち取る「自主防衛」と「普通の国」を、あの親分が容認すると、本当にお考えか。

「日本はクズの国になる」という一文を友人の鹿島拾市から受け取った。簡潔な文なので紹介する。

日本はホントにどうしようもない国になってきた。

議論の志とレベルのどうしようもない低さ。

日米安保アメリカに守ってもらっているからイラク派兵を断れない?

日米安保で基地を提供しているから、アメリカは太平洋からインド洋までを支配できているのである。アメリカに守ってもらわないとすぐさま他国に侵略されるような環境に日本はない(日本の防衛の力量も含めて)。

日米安保を失えばアメリカの世界支配は崩壊するのだ。アメリカにお得な、あるいは最低限互いに対等な取引になっているのであって、それ以上何かを差し出す必要はまるでない。

東アジアで地域的安全保障の枠組みを漸進的に厚くしていけば、日米安保のために日本が払わなくてはならない対価はますます下がるはずである。要は日本の外交力の問題だ。

アメリカに守ってもらっているからイラク派兵は断れないんです、いやなら憲法を改正してもっと軍事力を強化しなくてはならないんですよ、などとわけのわからない二者択一を迫る議論もあるが、こういうことを言う連中は内心「どっちに転んでも結果は歓迎」などとニヤついているのだ。救いようのない退廃!

北朝鮮から守ってもらうために・・という理由づけも意味が分からない。たとえばイラクで日本がアメリカに従わなかったら、アメリカは北朝鮮核武装を放置してしまうとでもいうのであろうか。アメリカは日本のために北朝鮮と対峙しているわけではない。余談だが、「政治学者」の中西輝政は、西海岸に届く「テポドン2」が完成したら、アメリカは日本を放棄して本土に逃げ帰ってしまうだろう、などといっていた。こんな馬鹿には金正日の側近がふさわしい。「ああいう人を学者といっていいんですかねぇ」と、知人の国際政治学者がぼやいていた(決してリベラルというわけではない人だ)。

外務省も同様の発想をしているようだ。だが、世論の思い込みとは逆に、イラクでいうことを聞いておけば、朝鮮半島ではネオコン流の単独行動主義を抑えることが出来る(つまり戦争を回避できる)というのがその理由である(毎日による)。だが、そううまくいくだろうか。イラクでいうことをきいてくれたのだから朝鮮でも大丈夫、というのがアメリカの発想であり、いったんアメリカが決めれば今の日本の発想で抵抗など1ミリも出来ないだろう。日本は自分を安く売っただけだ。「戦争はできません」は高く売れたはずなのに。

もっとも退廃を感じたのは、だがこの先だ。

元将軍の志方俊之は、一貫してイラク派兵に賛成していた。駐留地は強固に守られるから安全だ、などと素人でもわかる馬鹿げた「軍事論」を展開してきたはずだ。ところが一旦派兵が決定した瞬間この人の第一声はこうだ。

「旧政権残党が負けを認めてないのだからイラク戦争はまだ終わっていない。現地は戦場だ(「軍事研究」?月号)。自衛隊がこんなに軽装備では、被害が出る可能性は極めて高い(日刊ゲンダイ)」

何を言っているのか。派兵される自衛隊の装備がどのくらいのレベルになるか、そんなことは予想できたことだ。そのなかで、驚くほどの軽装備になったとはぼくには思えない。なぜ賛成の旗を振る前に「重装備」を派兵の前提条件として強調しなかったのか。

志方さん、わざとなんだろ?

そもそもが、重装備が安全を保証するならなぜ米軍の死傷者が一番多いのか。戦車やミサイルはゲリラから身を守る防弾チョッキのごときものではない。「反撃」を保証するだけだ。

そしてその「反撃」の用兵上の条件は、どれだけ詰めたうえで兵士たちは送り出されようとしているのか。「反撃」を政治的にどう許容するのか、その議論はつめられているか。

「反撃」とはつまり、イラク市民を殺すことだ。政治家連中は一人でも自分の手で人を殺してみたことがあるか。20歳そこそこの北海道の若者たちに、十字架を背負わせるのか。

奇妙なことに、派兵が決定すると突如として派兵賛成派は「自衛隊から死者が出る」「非戦闘地域などない」と叫び始めた。その前日まで、こうした判断は反対派の論拠だったはずだ。例のサピオのあおりも「自衛隊を襲う無差別テロの衝撃」だ。

ぼくが今注目している軍事評論家の神浦元彰のHPによれば、テレビで共演したある外交評論家は、楽屋裏でこういったそうだ。「自衛隊からかならず死者が出る。そのときこそ日本が『普通の国』になる好機だ」。何のことはない。みんなして待っているのだ。「わが軍」の兵士たちが死ぬ日を。殺す日を。成人式で騒ぐ若者たちに眉をひそめる大人たちが、彼らの死を待ちかねているのだ。「憲法が彼らを殺した」―週刊新潮の得意げな広告が目に浮かぶ。

かつてイラクへの派兵について同僚と話したとき、ぼくが、他国での戦死のリスクを自衛官たちがどう納得できるか、と指摘したことに対して、彼は言った。「でも危険な仕事だということを知ってて就職したんでしょ?」

「200人のうち数人が死ぬ。これは大変な割合だ」友人が言ってた。割合でいえば、ブルガリア軍は2%が死に、20%が負傷している。

誰も、兵士たちのことを心配しない。自衛隊に行くしかなかった底辺の人々のことを心配しない。殺したり殺されたりするのに、せめて納得できる「正しさ」が必要なことをしらない。一流大学を卒業して、新聞読んで国政を語れる教養を得た人々が、彼らの死を待っている。アメリカにさからう知恵も勇気もないので、若者の皆さん死んできてくださいと政治家たちは言う。ブッシュ批判の本は腐るほど売れても、派兵はやむをえないとかいってる連中。アフガン復興とかいいながらアフガン人労働者たちを大量検挙する行政。

これが戦争だ。日本はクズの国になる。

全く同じことを考えていた。極寒の旭川から灼熱のイラクに赴く隊員は、僕と子どもの頃に遊んだ友達かもしれない。それを思うと、またやりきれなくなる。無力を呪う。