何を隠蔽するのか。

松文館裁判。一審は敗訴。彼の裁判長は、はじめから有罪と決め込んでいただろう。少なくとも、そう見えた。「猥褻」か否かを断じる権力を、当分手放すつもりはないらしい。

「あの内容では擁護できない」という意見。いや、あなたに擁護されようなんて端から考えちゃいません。誰もあなたにいい悪いを決めてくれとは言ってません。人を処罰できる権限を持った人間が、ある表現を「猥褻だ」と言える、そのことに限りなく疑問があるだけです。

七生養護学校事件。障碍者は性的であってはならないわけだ。かつてのスウェーデンのように断種でもするか?青少年条例。青少年は性的であってはいけないと?ならばフェティッシュの根源である制服を全廃すればいい。商品化できないものなどない。自由経済なのだから。保守派の思いつきの戯言もフェミニストのその場しのぎの屁理屈もうんざりだ。性を隠蔽することで、あんたのコンプレックスも隠蔽したつもりならお笑いだ。

「多様なn個の性のグラデーション」とは、マチスモも倫理派もモノガミーもポリガミーもロマンティックラブもスポーツセックスもヘテロもホモも女性も男性もインターセックスも「そこにいていい」と認めあうことでしかない。異論を打倒することより、大きな和解を目指そう。これを強者の甘言と受け取るべきではない。でなければ、セクシュアルマイノリティ運動はかつての共産主義運動と同じ敗北をたどるだろう。