洗礼という契機。

日曜日のミサは「洗礼志願式」だった。75名もの志願者。そんな景色は見たことがない。恐るべし、晴佐久神父。

友人の鹿島拾市が「カトリックの洗礼を受けたい。」と言いだし、何でか僕が「代父」の役を任される羽目になった。「代父」というのは受洗するにあたって、未信者の親に代わって「教会での親」として立てられるものだ。どえらいプレッシャー。

鹿島が洗礼を決意した心境は、幼児洗礼の僕には計り知れない。
「あとから来る者が先に立つ。」という聖書の言葉どおり、自らの意志で神と契約する人には叶わないな、と思う。意識を持つ以前にあらかじめ与えられた機会を認識するためには、時には反抗し、時には逸脱しながら、結局放蕩息子のように還ってくる……そういう期間が必要だった。

本当のところ、僕には「自分一人で生きている」という意識が希薄だ。なにがしかの機会にふっと、「自分は『何かをするために』生かされている」ような気がしてならない。それが何なのか、わかれば苦労しない。自分の弱さも、土壇場でのしぶとさも、そんな意識から来ているような気がする。

カトリックとは、キリスト教とはそういうものだよ。」
と言われても、やはり実感がない。先日書いた「自我の弱い人」というのは、実のところ僕自身の偽らざる姿だ。

同じ日、札幌の友人、Nさんも洗礼志願式に臨んだという。僕は鹿島に「アシジのフランシスコ」、Nさんに「マグダラのマリア」というクリスチャンネームを薦めた。両方とも、僕が考え得る「全き聖人」の典型とも言える人々だったからだ。弱さと、優しさと、自覚しない強さ。その象徴として「聖人」は存在する。

揶揄する人もいるだろう。「今どき、宗教かよ。」

いや、申し訳ないが気分がいい。僕はようやく、遠回りして自分の家に還ろうとしている。そう思えたからだ。