「正しく理解されること」への抗い?

johanne2004-10-13

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/marxgirl.html

「正統な」マルキストでコアなマンガ読みである「紙屋研究所」氏に「マルクスガール」を語られるくらい、恥ずかしいことはない。高校生の頃、高校の新聞局室に大月文庫版「資本論」を並べ、手前になんちゃって火炎瓶を並べて悦に入り、文庫の中身はまるっきり斜め読み…という「ニセ左翼暴力主義者」だった僕にとって、「マルクス」は「ゲバラ」と同じ「イコン」でしかなかった。そもそも、「マルクスガール」じたいが鹿島拾市に言わせれば「日本国中のたぶん、20人くらいの人間にしか全ては伝わらないように描かれた私小説」だった。僕は無意識に「お前らなんぞにわかってたまるか」といった不遜な感情を原稿用紙にぶつけていたに過ぎない。

紙屋研究所」氏の誠実な「読み」ですら、(だったらなぜ、あなたは「前衛党員」などという立ち位置に拘るのか?!)ってな反駁に短絡してしまいそうになる。「孤立する自由」を凌駕する共同性や組織など、それこそが幻想じゃないのか?マルキシズムの負の歴史を、なぜすすんで被ろうとする?…それが愚問だと言うこともわかっている。僕にとっても「カトリック」という「孤立する自由」からは極めて遠い「価値の源」があり、それを捨てるなどと言う選択肢がない「不自由」をすすんで受け止めている。

幼児洗礼の僕にとって「信仰」とは、「疑うもの」で、「信じること」から出発している「後から来た人たち」の素直さは、感心すると共にある意味妬ましく、うっとおしいとすら感じるものだ。「紙屋研究所」氏にとっても、そういったアンビバレントがあるのかも知れない。ならば、彼の言う「越境」はそう難しいことではないと、少なくとも僕は信じている。