「史実」は「事実」なのかな?

だらだらとサイトを徘徊していたら、唐沢俊一さんの日記で「新撰組!」についての記述を見つけた。

http://www.tobunken.com/diary/diary.html

17日の日付だから、武田観柳斎が殺される回を観たのだろう。人様がドラマをどんな風に鑑賞しようが自由だし、ちゃちゃを入れるのも無粋だろう。…とは思ったのだが、正直、唐沢さん、このドラマをあまり熱心にご覧になってないんじゃないかな?と感じた。印象批評の割に、どうにも決めつけちゃってるのがいただけない。

ある人のサイトで、山南敬助切腹させられる回を絶賛していて、“どうしたらこういうドラマが描けるのだろう”とか書いてあった。あのー、史実なんですけど、とつい口をついて出たものである。

という締めの言葉には、失礼ながら失笑を禁じ得なかった。僕もこの回を絶賛しているクチではあるが、アレを評価する人は僕も含めて「史実」である山南の切腹に対しての三谷幸喜の「解釈」の斬新さを誉めているのだと思う。三谷版「新撰組!」を批判する人は口をそろえて「演技が学芸会みたいで軽い」「史実を逸脱しすぎて馴染めない」とのたもう。一方、僕の回りでは非常に好評で、「軽妙な演技と各キャラクターの掘り下げが絶妙にバランスが良い」「従来描かれてきた定番の史実を逸脱することでテーマ性を際だたせている」と評価している。何故にこれほど評価が分かれるのだろう?

唐沢さんが指摘する箇所に、どうも答えがあるような気がする。
>>大河ドラマというのは歴史を真っ正面から描くという枠付けのシリーズなのだから、こういう演出意図はやはり浮く。<<
「歴史」を描くとは、必ずしも「定説」を踏まえなければならない、とは限らない。僕の好きな「獅子の時代」とか「黄金の日々」といった名作は、架空の主人公を据えることで大胆な歴史解釈を可能にした。史実を忠実に再現してしまっては、「忠臣蔵」なんかはどういじっても凡庸にしかならない。そもそも、大河ドラマの低迷は、うわべだけの枠付け、格付けにこだわったからなんじゃないかなぁ?

歴史ドラマにカタルシスを求める人ほど、「史実と違う」とか「時代考証が甘い」とかいう批判をしたがるんじゃないかな?歴史を題材にしたフィクションに必要なのは、立場の違いによって生じる多様な「歴史観」をチョイスして、新たな「解釈」を加えて描く事じゃないのかな?唐沢さんの指摘は、正直的はずれな気がしますよ。

何も、司馬遼太郎歴史小説が史実であり、真実というわけではないはずなのに、「司馬史観」を奉じる人が多い現象と何となく似ている気がする。司馬遼太郎の描いた「解釈」が良く整理されていて、よどみない所が多くの人を魅了するのだろうけれど、あれが「史実」な訳じゃないと思うのだが。中国で「封神演義」が受けまくったあまりに、物語上の架空の神様を祭った神社が出来ちゃったりする滑稽さにつながると思うので、「司馬史観」を語る人とはやんわりと距離を置いたりしています。

新撰組!」の舞台裏エピソードで、こんな話を聞いた。収録後の飲み会の席で、八嶋智人が酔っぱらって、やおら山本耕史に向かって「土方さん、俺ぁ、あのやり方には納得行かないんだがなぁ」と切り出した。山本もまた「武田さんは甘いんだよ!」などとやりかえし、堺雅人も小首を傾げながら論争に加わりだし、大混乱に。慌てた藤原くんは別室で飲んでいた香取くんに「近藤さん!大変です!」と伝え、「まぁまぁ」と局長がその場を諫める…その場を想像しただけで、何ともほほえましくなる。役者が役になりきるって、言うほど容易いことではないはずだ。このドラマの面白さについて語りだしたら、本当に止まらなくなるので、この辺で留めておく。

新撰組を「滅びの美学」ではなく「先鋭的な組織が宿命的に辿る悲惨」と「『勤皇』と『佐幕』の分水嶺」という視点で描こうとした三谷幸喜を賞賛したい。毎回、観るのが辛いけれど、僕も逃げずに最後まで見届けますよ。