教皇逝去を悼む

johanne2005-04-03

天寿であったかもしれない。けれど、もう少し、永く生きていて欲しかった。

アラファトが去り、ポープも去った世の中には、傲慢で愚鈍で無責任な「指導者」ばかりが溢れかえっている。せめて枢機卿には、次の教皇に「変革の指導者」を選んで欲しいと願うのだが。

1981年の教皇来日のとき、亡き父は札幌教区の信徒代表として猊下に謁見した。戴いたロザリオは何故か、僕の部屋の引き出しに無造作に埋もれている。ポープ(教皇の愛称)は、必ずしも「変革の人」ではなかった。「生」と「性」という、倫理に触れる課題にだけは、「教会の権威」を譲り渡そうとはしなかった。僕はそれは間違っていると考える立場だが、それ以外においては、これほどローマ・カトリック教会史上「民衆の痛みと哀しみ」に敏感だった教皇はいないのではないか。「変革の人」でないことへの不満は、前任のヨハネパウロ1世が改革志向であったにもかかわらず、不可解な死を遂げていることと繋がっているのだが、カロル=ヴォイチェワ大司教は、それでもなお「平和の希求者」として存在し続けた。

高校生の頃。カトリックの保守性に疑問を持ち、信仰が揺らいだ時期があった。そのころ南米では「解放の神学」という運動が盛んだった。その時期の教皇来訪は「保守派による『解放の神学』潰し」に利用されているとの見方があった。ところが、ポープは民衆の実態を知ることで、当日のミサの中では「貧困と不自由から民衆を解放するあらゆる努力を惜しんではならない」と説教した。政治的駆け引きよりも、民衆の苦しみに目を向けた、異例の説教だったと伝え聞いた。それ以来、迷いはあっても、僕はこの共同体の中で存在し続けようと誓ったのだ。

小手先の現世利益や、衒学や、神秘体験にしか反応しない「信心」にこだわる連中には、カトリックが持つ「普遍性」という究極の目標など、どうせ理解できないだろう。浅はかな無神論者も同様だ。ポープが終生たたえていた哀しげな微笑の意味を、これからも胸に刻み、生きていこう。