隣人を愛せるか?

この間のコメント欄でのやりとりで感じたのは、僕も含め、およそこの国の人間は「他者との向き合い方」について緊張感が希薄なのだと思います。それが美徳だと考えるなら、致し方ない、もう一度鎖国するしかありません。

あらためて表明することに抵抗を感じますが、僕は一度も、「靖国神社への公式参拝」が正しいとか、満州事変や日中戦争日韓併合と言った日本の過去の戦争を肯定したことはありません。ただし、靖国神社A級戦犯が合祀されているからいかんとか、日本人は過去の戦争への反省が足りないとかいう理由ではありません。国営墓地の設立による戦没者の慰霊は必要ですし、遅れてきた帝国主義国家が侵した戦争犯罪の裏に、防衛戦争を遂行しなければならないという強迫観念があったことは考慮しなければならないと思います。問題をややこしくしているのは日本側の頑なさや開き直りだけではなく、中国や韓国と言った「被害者側」の論理や行動にもファナティックなナショナリズムの匂いがすることではないかと思います。

実は、「他者性の認識が甘い」という問題が日本人だけではなく、自らを劣っていると感じている多くの国家や人間が抱えてしまう問題なのではないかと考えるのです。日本人と韓国人、中国人がこれほど近いのに嫌悪しあうのは差別意識や教育のせいではなく、「同じような顔をしているのに言葉は通じないし、常識は通じないし、デカい面してやがる。あいつら訳わかんねぇ。」という「近すぎるがゆえの憎悪」に起因しているのではないかと。

例えば、アフリカ中央部でツチ族フツ族がいがみ合い、殺し合っている状況を見て、僕らは理解できない。何で、似たような顔をして、似たような言葉を喋っている人々が国家の枠を越えて争っているのか? これは歴史的に言えば、当時の宗主国であった帝国主義各国が、植民地支配の過程でツチとフツをいがみ合わせ、支配に都合よく利用したということです。又聞きですが、戦後の韓国での「反日教育」を遡れば、アメリカの影があったという話もあります。いずれにせよ、こうした民族間の相互憎悪によって漁夫の利を得るのは、「他者」を一概に「蛮族」と見なし、笑顔で「啓蒙」してくれる「文化的な民族」でしかないと考えるのですが。

これに対し、「みんな仲良く」と言っても詮無いことです。それぞれが自分自身の姿が見えていない。この2〜30年で日本も韓国も中国も、とてつもなく強大な国家に成長しているのは紛れもない事実なのに、未だに自分たちは「ひ弱で泣いてばかりいる劣等民族」だと感じていて、そのコンプレックスの裏返しで尊大な態度を取ろうとする。日本人ばかりが傲慢で尊大なわけではない。そもそも、そういう態度をとろうとすること自体が劣等感丸出しのマッチョ野郎なのですよ。石原慎太郎とか、中川昭一とか、安部晋三とか、西村真悟とかね。別にウヨばかりじゃなくてさ。サヨは中国とか、韓国が騒ぐとすぐにヘコヘコするしさ。冷静に見てたら、韓国で日の丸焼いてるのは退役軍人だったり。中国のデモで商店破壊してた連中なんて、どう見ても憂さ晴らしでしょ? 「つくる会」の歴史教科書を認める連中が「中韓の歴史教科書が偏っている!」なんて叫ぶのはそれこそ、目クソ鼻クソだって冷笑してやるためには、偏狭なナショナリズム一般を批判しなけりゃ成り立たない。

全く逆のことも言える。中国や韓国が指摘している歴史認識の問題や、国連常任理事国入り反対の主張はそれほど一笑に付せる問題ではない。ファナティックな行動ばかりに感情的になっても、自分たちの足下が見えなくなっている危険性はありそうだ。ちゃんと向き合うために、ちゃんと話し合うために、「他者への畏敬と緊張」はしっかり持っていた方がいい。まずは、繰り返して言うが「分かり合えないことを分かり合う」ことから始めようぜ。