「連帯」という言葉が、あまりにも軽い。

昔から、サヨクの一番気にくわないところが「革命家で反権力で反差別で反天皇制で反原発で自由と平和と平等を愛して人権を擁護して非暴力で高潔でエコロジカルでフェミニストで」なければならないという、むちゃくちゃなハードルを臆面もなく掲げて、そこからはみ出す人間をしたり顔で糾弾する点だった。天皇制は好きでも原発は嫌い、とか、フェミニストくそくらえだけど絶対自由主義者…なんてのは「ムラ」には入れない。一事が万事そんな調子だから、レイプ事件の対処で四分五裂する党派があったり、内ゲバに「暗黙のルール」が存在したり、文化人のそぶりをして近づいてきたヤクザの内通者を持ち上げてみたり、ヨードチンキを売りつける詐欺師に失望したり、ご高説を宣う「サヨクの大物」がこそこそデリヘル頼んだりするんじゃないのか?

覚悟もないのに、易々と「連帯」などという言葉を使うな。第三世界の貧困と、無自覚な帝国主義本国人が「連帯」できるなどとゆめゆめ思うな。「東アジア反日武装戦線」が冒したあまりにも稚拙な「犯罪」を忘れるな。僕にとって、サヨクが吐き捨てる「反日」など、「免罪符」にしか感じられない。僕らが享受している「豊かさ」が、絶望的な「貧困」の上に成り立っていることを自覚するなら、まずしなければならないことは、「帝国主義本国」と対峙することではないのか? 絶望的な対話を重ねてみろ。相手を折伏することではなく、相手とのわずかな接点を追究してみろ。勝利ではなく、和解することを。

僕はいま、僕がいる場所で「連帯」の可能性を追究している。「エロ漫画家」という、およそ社会から嘲笑され、それでも描くことを止めない、こじれた表現者のささやかな内心の自由を賭けて。これほど「連帯」することが困難な我の強い連中でも、わかりあえる友がいる。そういう「連帯」を創っていくのでなければ、美辞麗句は何も生み出さない。「他者」を理解するために、「他者」と対峙することが出来なければ、その先には殺戮しかない。だから、何度でもこの言葉を噛みしめる。



「もしも、俺が死んだら世界は和解してくれ。(吉本隆明)」