少女に仮託する想いとは?

何度目の「風の谷のナウシカ」か…とか言いつつ観てしまう弱さ。やっぱ面白い。でも、一部のフェミニストは気に入らないらしい。つまり、少女や母を崇拝する男の身勝手、と。このテの批判は、綾波よりアスカだ、とか、明菜より聖子だ、とか、もうかれこれ14〜5年は聞かされてきた理屈。「オタク男は保守的だ」という偏見も、概ねこのぞんざいな批判に依拠している。

ポリティカル・コレクトネス(PC)*1って、ちょっと前流行ったよね。「宮崎駿のアニメはヒロインが不細工なときに高名な賞を取る法則(かなり乱暴な要約)」というのを森川嘉一郎さんが指摘したときは笑った。ヲタ絵、萌え絵を見下す風潮も、こうしたもっともらしい批判と結託し、結果、表現の可能性は閉ざされていく。ファンタジーの世界で、現実にあり得ないキャラクターに仮託することくらい容認してよ。リアルが全てなら、マンガやアニメの立場がない。

思えば、僕もやたらと女の子主人公ばかり描きたがる。というか、「少年」「ヒーロー」が主人公のマンガをほとんど描かない。というか描けない。たぶん、オザキユタカに失望して以降か。「未熟な男性」であることへの不全感を抱え、なおかつ「立派な大人」に抑圧されるコンプレックスを「戦闘美少女」に仮託しているのだと、かつては考えていた。「メンズリブ運動」に傾倒していた頃だ。ただ、それだけでは単なるクロスカウンター止まりだな……と最近は思い直している。

新撰組」に思いをはせるやおい少女やロボットメイドに萌えるヲタク少年は、もはやマイノリティではない気がする。妄想する自由を保障するのは、妄想と現実をしっかりと峻別する能力があってのことではないのか?当たり前のことだが、果たしてそこが肝心なんじゃないか?

幼女に手をかけるペドを守ってる訳じゃねぇし、パンツ丸出しで「カメコきも」とか抜かす自意識過剰女をもてはやすつもりもねぇ。俺はただ、妄想の海で遊びたいだけだ。